ゆとり世代、さとり世代ではない。我々は はざま 世代だ。

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ゆとり世代と言わないで」みたいな

僕は1994年に生を受けた。いわゆるゆとり世代のど真ん中だ。小学校1年生の時は2週間に1回土曜日に学校に通っていたが、2年生から土曜日は休みになって、小躍りしたのは強い印象がある。

しかし若き日の自分に言いたい。

小躍りしてる場合ではないのだ。

待ち受けるのがどんな無理ゲーか、理解していないだろう。

 

 

本題に入る前に

ゆとり世代、さとり世代とは

welq.jp

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上記を見てもらうとわかる通り、回答が一つの暗記型教育によって思考停止状態に陥ってしまった結果生み出されたのがゆとり世代

その失敗を見て、人生に希望を見出せずに飄々と生きようという価値観を持つのがさとり世代。

2000年代生まれを、同じ轍は踏むまいと器用に生きようとするあまりに、周りに尽くし、必死に市場に溶け込もうとしているつくし世代なんて呼んだりもします。

言葉の定義はあくまでカテゴライズするための便宜的なものなのでそこまで重要ではなくて、注目したいのはこの言葉が揶揄の対象になるっていう部分。

ゆとり世代真っ盛りの自分はん〜・・・って思うわけです。

 

なんだかんだいっても、世代、年代でくくるのはある程度当てはまると思う

本題に入る前に断っておくと、どんな時代に生きようと、自分なりの考えを持って主体的に動ける”異常値”が少なからずいます。

僕も、「ゆとり世代だったから、〜」のようにこれを言い訳にすることを潔しとするわけではありません。

ただし、世の中は2:8の法則で成り立つという信条を持っている僕は、8割の人間は大きく時代の影響を受けると思うわけです。 環境は、人を構築します。誰がなんと言おうと、普通に生きていたら影響され、それが当たり前として心身に染み付いていくと思います。

僕は被害者ヅラをしたいわけでも、同年代にそれをしてほしいわけでもない。それによって、年長者、他の年代の人々から同情されたいわけでもないです。 僕も弱いので時代のせいにしたくなるときがありますが、その中でも生き生きと人生を送る”異常値”がいることもまた事実です。

それでもなぜ、世代でくくってこのような話をするかというと、僕たちの世代は、自分たちが置かれている現状を捉えきれていない人が多いと感じるからです。

自分の現状を把握して、その中でどう生きていくか考えるためには、ゆとり世代、さとり世代、つくし世代という言葉は適していません。 なぜなら、客観的事実ではなくて、揶揄や主観で濁っているからです。

このような呼ばれ方をしていたり、自分たちをこのようなカテゴリーに振り分けてしまうと、また思考停止に陥ります。 そんな思考停止状態にならないために僕は「はざま世代」という言葉を使いたい。

はざま世代とは

一貫して詰め込み、暗記型の義務教育を受け続け、学歴社会の絶対的価値を植え付けられた、という反面 日本経済の展望が見えづらく、頼る大人がいない、という主に1990年〜2000年代前半に生まれた世代。

日々のルーティーンワークこそが成し遂げるべきことであって、歯車でいいんだよ、という教育と これからはクリティカルな仕事しか残らないんだから、自分の頭で考えなよ、という社会の要求に板ばさみになっています。

もちろん僕たちは後者に対する教育は全く受けていませんし、考えたこともありませんでした。入社後に素養をつけていくという行程が徐々に失われつつあります。 もちろんこれは海外では当然のこと、新卒でわざわざ雇ってくれる企業の方が少ないので、大学を卒業したらどこかで就業経験をつまなければならないことなんて、世界的に見たら当然です。

ただし、僕たちは準備ができなかった。だから困惑する。

就職活動における日本教育の失敗の顕在化

この展開についていけていないのは僕たちはざま世代だけではありません。 過去を作り上げてきた大人、つまり採用側の企業も困惑しています。

今までは、生涯会社に尽くしてくれる人間で、学歴という絶対的指標に、多少のコミュニケーション能力を吟味していればよかった。 しかし、現在、社会構造の変化から転職、離職が一般化してしまったので、即戦力ないし実力、地力のある人間を雇う必要が出てきた。

企業はどうするかというと、インターンを行い実際に素養を見たり、あるいは実戦経験を重視する採用戦略をとります。 面接で「0→1できないの?はい無能無能。は?学歴?そんなのもう価値ねーから」となるわけです。

う〜んこの無理ゲー。土曜が休みの日になったことを喜んでる場合じゃないんだよ僕。

その結果量産されるのは、意識高い系、といわれる人々です。 企業としては、今までのような”一つの正解を見つける能力”ではなく、自分から”正解を作り出す能力”を見たいと思っているはずです。 そうでないとこの先の時代、企業は作っていけない。なぜなら、高度経済成長気のような正解を持たない現代では、大人も未来のことはわからないからです。

それに対してはざま世代の学生は、「また正解を探せばいいんだよね?楽勝だぜ!」と一種のバズワードである海外、ボランティア、少し時代を遡ると世界一周や、インターンに飛びつくわけです。

これからを生きていくためには、三人称視点に切り替えよう

しかし正解を探して行動するのは明らかに時代錯誤であり、本質を見失うとただの時間というコストの浪費になりかねません。

なぜ”意識高い系”が揶揄されるのかというと、自分の正解を見つけるための活動であるべきことが、実は既存の正解をさがすための活動になっているからではないかなと僕は考えます。 本人たちは地球全体で宝探しをしているつもりになっていても、実際は公園の砂場の中でビー玉を探している状態だったりするわけです。そりゃあ、周りから見たら滑稽だよね。 目的はあくまで自分なりの正解を作り出すためでなければならないし、どこかに正解があると信じて探し求めても、そのフィールドが砂場ではいいキャリアとは言えないでしょう。

僕が大好きな湾岸でいうと、一人称視点で突っ走って、周りを観察しては自分というものを見失います。

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一人称視点。自分の姿は見えない。

 

三人称視点に切り替え、自分と周りの車(市場)を見比べた上で、どの角度で曲がるか、どのルートを選択するべきです。

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その結果が逆走であっても、全く問題ないでしょう。なぜなら時代はもう正解を示すことができないので、自分を見つめた結果の選択はすべて正解だからです。

なぜ「はざま世代」というワードを使うのか

こんな大仰なことを言っておきながら、僕は今海外インターンをしている、現代の悩める就活生の鏡のような選択をしました。

 

onomimono.hatenablog.jp

 

記事を書いていて自分自身に刺さることも何度かありましたが、しかし大切なのは覚悟と心持ちであると僕は思います。僕はこんな辺境の地に自分の正解があるとは思っていません。期待なんてしません。

なぜきたのか、それは自分の置かれている現状を理解してこのままでは時代のはざまの押し潰されるなと思ったからです。かの三人称モードで自分と市場を見たときに、自分のいるところ、育ってきたところは公園の砂場でしかないということに気づきました。

これから生きていくためには、公園を認識し、その外の街を認識し、国を認識し、地球を認識する、という俯瞰的目線が必要です。

「はざま世代」というワードの良さは、行動を引き起こせるところにあると思っています。 他のカテゴライズには現状を揶揄するのみで行動を起こさせる要因が含まれないというところが僕は嫌いです。 時代の”はざま”にいるということを、辛いけれども受け入れて、では今この世の中で何が起きているのかを認識することが、この時代の生き方なのではないかなと僕は思います。

ネタで無理ゲーとか言いましたけど、全然無理ゲーじゃないっす。今の時代は裏を返せばなんでも正解になりうるんです。こんな楽しいことはないでしょう。

僕がドラクエよりグラセフが好きだからかもしれませんが・・・笑

 

おわりに

電通の一件で、徐々に顕著になりつつあるジェネレーションギャップを明確に認識しておきたくてこのような記事を書きました。

珍しく真面目な内容になってしまいましたが、最後までのご精読ありがとうございました。

 

 

 

 

・・・あぁ、大人になりたくないな